ローマ5:21の詳訳聖書には「それは、罪が死によって支配したように、そのように恵み(神が人の働きや価値によらないで与えて下さる愛顧)も、私達の主イエス・キリスト(メシヤ・油注がれた方)によって永遠の命を生み出す義(神の正しい身分)によって支配するようになる為なのです。」と訳されています。「永遠の命を生み出す義(イエス様に信頼した事による、神から認められた義認)が永遠の命を生み出すのです。従って「私達は罪人だ」と主張している人達には義による永遠の命を生み出す力はない」という事になります。そして、
ローマ4:25の詳訳には「この主イエスは、私達の罪の為に、裏切られて殺され、私達の義認(無罪放免)を獲得する為に(私達を神の前において全ての罪責から赦免する事によって、私達の計算書を不足なしにするため)甦られたのです。」と訳されています。私達はイエス様を信じた事により、無罪放免とされた。全ての罪責から放免されたのですから無罪放免されました。罪責とは「罪の責任」であり、私達は全く罪の責任がありません。従って罪の結果である病、不幸、絶望、失望、失敗、敗北を受け入れる必要はないのです。
従って自らを「義人」だと信じている人の祈りは、神から「罪がない」と認められている故に祈りが聞き入れられるという解釈になる訳です。「それは間違っている。」と感じられる方もおられるでしょう。そして、それが聖書的謙遜であると思われるでしょう。でも、これが聖書に書かれている以上「私は神に義認されていません。」と言われるなら「私は永遠の命を持っていません。」と言っている事になります。それは「聖書には間違った事が書いてある。」という事になります。時々、日本人の謙遜は「自分達の言い伝えによって、神が書かれた聖書のみ言葉に反抗する事になっているのではないか?」という事を考えてみて下さい。それよりも「私は義人です。」と告白した方が祈りが聞かれる事に繋がります。久しぶりの投稿でした。リバイバルは間近だと感じます。皆さんの祝福をお祈りいたします。
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